2017年12月16日土曜日

引退の耐えられない重さ

ダニエル・デイ=ルイスが引退を発表して、何か月になるだろう。

彼は、私が高校一年生の時から思いを馳せてきた俳優である。そして、彼の存在は私にとって、アカデミー賞と密接な関係にある。

私が彼を知ったのは、中学三年生の時だった。おそらく先生に進められてみた「眺めのいい部屋」が最初の作品だったと思う。その頃彼は、「存在の耐えられない軽さ」という作品で日本において大ブレイクし、私の買っていた映画雑誌はこぞって彼を取り上げていた。まだ幼かった私はリバー・フェニックスに夢中で、正直彼のどこが良いのか全く分からなかったことを鮮明に覚えている。

1989年、私が高校に入学した年に彼は、「マイレフトフット」という映画に出演する。そして、1990年3月末に発表された第62回アカデミー賞で見事主演男優賞に輝く。くしくもそれは、私が初めて録画をして見たアカデミー賞授賞式だった。「ラスト・オブ・モヒカン」の撮影中(もしくは撮影準備中)だった彼は、肩まで髪を伸ばし、ほかの誰とも違うタキシードとボウタイで授賞式に現れた。Well, you just provided me with a hell of a night in Dublin...  そんな言葉で彼の受賞スピーチは始まった。そのはにかんだような美しさと、ちょっと鼻にかかった美しい英国アクセントの英語に、私は一瞬で虜になった。それ以来、どこで誰に聞かれても、私の好きな俳優はダニエル・デイ=ルイスになった。そして、それと同時に、俳優の銀幕とは全然違う表情を見せてくれるアカデミー賞に、夢中になった。

その後日本でも「マイレフトフット」は公開され、私も渋谷のシネマライズに足を運んだ。そこにいた彼は、授賞式の華やかなハンサムな男性とは全然違う、髭もじゃの気難しい大人の男性だった。私は初めて、彼の演技のすごさを目の当たりにし、その後VHSでマイ・ビューティフル・ランドレットを見た。この映画の中にもまた、全然違う彼がいた。

アカデミー賞を受賞した後の彼は、続けざまに有名監督の作品に出た。マイケル・マン監督の「ラスト・オブ・モヒカン」は、私にはちょっと商業的に思えてあまり気に入らなかったが、再びジム・シェリダンと組んだ「父の祈りを」はどの角度から見ても非の打ちどころがない名作で、私はこの年ふたたび彼がオスカーを手にするのではないかと期待した。結果、この年1993年度は「フィラデルフィア」でトム・ハンクスが初受賞することになったのだが、私はいまだにこの年のオスカーが一番甲乙つけがたいレースだったと思っている。この年はまれにみる豊作の年で、作品賞も本当に粒ぞろいだった。(受賞したのはシンドラーのリスト)

この頃から私は、ダニエル・デイ=ルイスはそのうち、歴史上一番たくさんオスカーを手にする俳優になるに違いないと思うようになっていった。ほかの誰と比べても、彼ほど優れた俳優がいるとは思えなかったからだ。彼はどんな役をやっても説得力があり、それは毎回全然違うタイプの役柄だった。私は彼の新作が出るたびに劇場に並び、オスカーのノミネーションを待った。

しかし、90年代後半のそんなある日、彼は突然銀幕から姿を消す。なんでもイタリアに行って靴職人になるというのだ。彼の最後の作品は、「マイレフトフット」「父の祈りを」で組んだジム・シェリダンのアイルランド三部作完結編「ボクサー」だった。この作品でも彼は本当のボクサーと同じトレーニングをし、減量をし、役になりきったが、残念ながら作品自体がそこまで秀作ではなかった。

この最後の作品で彼はアカデミー賞にノミネートされず、私は彼を再び銀幕で見ることをあきらめた。その頃には私は映画業界に足を踏み入れており、仕事での目標を「ダニエル・デイ=ルイスに会うこと」と言ってはばからなかったが、その夢はもはや夢で終わるかに見えた。しかし、1999年、彼はマーティン・スコセッシの説得により、銀幕に復帰を決意する。「ギャング・オブ・ニューヨーク」の悪役、ビル・ザ・ブッチャーを演じたのだ。

ギャングの撮影は1999年に始まり、2001年のはじめに終わった。ローマのチネチッタで行われたこの撮影は、予定していた撮影期間を大幅に遅れ、製作費も膨れ上がったと聞いている。公開は2001年末に予定されていたが、2001年9月にアルカイダによるテロが実行され、この作品の最後にこのワールドトレードセンターの映像が含まれていたことや、ニューヨークが舞台の暴力的な作品ということが理由で、公開は翌年に延期された。もしこの作品が2001年に公開されていたら、アカデミー賞の結果はどうなっていただろう。「ビューティフル・マインド」は作品賞に輝いただろうか。今となっては考えても仕方のないことだが、このビル・ザ・ブッチャーの役でDDLは、主演男優賞にノミネートされる。あまりの圧倒的な存在感に、明らかにわき役(=敵役)の彼の方が、主役のディカプリオよりも脈があるだろうと踏んだミラマックス(=今話題のハーヴェィ・ワインスタイン)が判断した結果だった。2002年度、第75回のアカデミー賞の主演男優賞は、結果的に最年少受賞のエイドリアン・ブロディに行く。前年の主演男優賞(デンゼル・ワシントン)が悪役での受賞だったので、2年連続で悪役が獲るのは良しとされなかったとか、そもそもわき役なのに主演男優賞にノミネートされたのが間違いだとか、DDLが受賞しなかったわけはいろいろささやかれたが、いずれにしてもあの年の演技として、彼のビル・ザ・ブッチャーが皆の脳裏に焼き付くような、印象的なものだったことは誰も否定できないだろう。

その後彼は俳優業に一応復帰し、出演作を注意深く選びながら今まで来た。そして「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」「リンカーン」の2本で再びアカデミー賞主演男優賞に輝いている。アカデミー賞の主演男優賞を3回獲っている俳優は前代未聞で、彼はすでに記録を作っているわけだが、私は彼がキャサリン・ヘップバーンの記録(受賞4回)をいずれは抜いて、今後誰にも抜かれない記録を作る(5回受賞)と思って疑わなかった。そして、彼がポール・トーマス・アンダーソンの新作に主演するという情報を得た去年、これはほぼ確信に変わった。主演男優賞4回目の受賞は記念すべき第90回アカデミー賞で決まりだ!

Phantom Thread をまだ見ることができていない私は、この作品がどのくらい出来が良く、一般受けする内容かを知らない。しかし聞こえてくる評価はそこまで芳しくない。アカデミー賞の主演男優賞にノミネートされるのはたったの5人。天下のDDLをもってしても、評判の良くない作品でノミネートされるほど簡単ではない。私は今月ずっと、祈るような思いで前哨戦を見てきたが、一番大事なSAG(俳優協会)賞のノミネートを逃した時には絶望的な気持ちになった。DDLが役者生命最後の作品で、アカデミー賞にノミネートされないかもしれないのだ。

ダニエル・デイ=ルイスの引退が、私にとって耐えられないのは、私が彼の大ファンであるからというだけでなく、彼の存在が私のライフワークであるアカデミー賞と密接に関わっているからだ。私は、彼がきっかけでアカデミー賞にはまった。彼に会いたい、アカデミー賞に出席したい、が目標で、映画業界に入った。私にとって彼の演技は誰よりも素晴らしいものであり、彼は演技をするたびにノミネートされるものだと信じてきた。彼が新作に出るということは再び大好きなアカデミー賞で彼の姿を見られることを意味し、今年もそれだけを楽しみに今までやってきたのだ。だから、撮影の真っただ中に突然発表された彼の引退は、大げさに言えば私の人生そのものがいったんここでストップするような感覚で、これからの指針をなくしたような気になるのだ。

私の今の最大の恐怖は、彼が今年のオスカーにノミネートされないこと、つまり最後のチャンスである3月4日のアカデミー賞で、彼の姿を目撃できないことである。大好きなライフワークであるアカデミー賞だが、今回彼がノミネートをされなかったら、来年からのオスカーを同じ気持ちで見ることができるだろうか。私にとってダニエル・デイ=ルイスは、オスカーそのものであり、私の映画人生なのである。